King Oliver
基本情報
生年月日 |
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1884/12/19(Aben, Louisiana) |
命日 |
1938/04/08(Savannah, Georgia) |
使用楽器 |
Cornet |
経歴
本名はJoseph Oliver(Joe Oliverとも呼ばれる)。ジャズ草創期における偉大な音楽家である。その最盛期は1915年頃から1923年頃と言われており、Louis Armstrongにコルネットを教えたことでも有名だ。Louis ArmstrongはJoe Oliverを慕っており、"Papa Joe"と呼ぶ程の仲であった。
Joe Oliverは1884年12月にニューオリンズで生まれた。Oliverが最初に手に取った楽器はトロンボーンだったが、10代前半の頃にコルネット奏者に転向する。1908年から1917年まではニューオリンズのブラスバンドやダンスバンドで演奏していたが、彼の演奏は評判を呼び、やがてストリーヴィルで有名なコルネット奏者のひとりになった。Allen Brass Band、Original Superior Orchestra、Eagle Band、Magnolia Orchestra、Onward Brass Band、Olympia Orchestra、Kid Oryのバンドで演奏をしていた他、自身のバンドでPete Lala'sに出演していたそうだ。Freddie KeppardとManuel Perezをカッティングセッションで打ち負かした際に"King"と称えられ、King Oliverという呼ばれるようになったのも、この頃の話だ。
1919年3月にニューオリンズを離れシカゴに移ったKing Oliverは、当初はLawrence Duhéがリーダーを務めるSugar Johnny's Creole OrchestraやBill JohnsonのOriginal Creole Orchestraで演奏していた。その翌年にはDreamland Cafeから自身のリーダーバンドでの出演オファーを受ける。必要に迫られたKing Oliverは、後にKing Oliver's Creole Jazz Bandと呼ばれるバンドの結成に向けて、Honore Dutrey、Johnny Dodds、Lil Hardin、Baby Doddsといった一流のミュージシャンを集めていった。1921年にはサンフランシスコで数か月ほど演奏した他、ロサンジェルスも訪れている。
1922年にシカゴに戻ってからは、Creole Jazz BandはLincoln Gardensを拠点とした。既に一流のミュージシャンを擁していたCreole Jazz Bandであったが、King Oliverはバンドのアンサンブルをより盛り上がるものに昇華させたいと考えた。悩んだKing Oliverが思い出したのはLouis Armstrongの存在であった。King Oliverが、かつての弟子にバンドへの加入を要請すると、師匠からの電報を受け取ったLouis Armstrongは"Papa Joe"を頼ることに決めた。
Creole Jazz Bandの人気は、Louisの加入により更に高まった。Louisのコルネットとバンドの演奏を聴く為に、熱狂的なファンやミュージシャンがLincoln Gardensに押し寄せたと言われる。また、1923年にはこのバンドでジェネットやオーケー、パラマウントといったレーベルで録音の機会にも恵まれた。
1924年にLouis Armstrongが去り、Creole Jazz Bandが解散すると、King OliverはJelly Roll Mortonと録音の機会に恵まれた。Jelly Roll Mortonはニューヨークで人気を集めたピアニストであったが、ちょうど前年にシカゴに来ていた。コルネットとピアノのデュオで吹き込まれた1924年12月の2曲は、ジャズ草創期の歴史的な名演で必聴だ。
更に、同じ頃、King OliverはDave Peyton's Symphonic Syncopatorsに加入する。このDave Peyton's Symphonic SyncopatorsはシカゴのPlantation Cafeと契約していたバンドで、1925年2月にDixie Syncopatorsと名前を変えると、すぐにKing Oliverがリーダーを務めるようになる。King Oliver's Dixie SyncopatorsのPlantation Cafeへの出演は1925年から1927年まで続き、ヴォカリオンとブランズウィックでの録音の機会もあった。
1927年に中西部のツアーに出た後、Dixie SyncopatorsはニューヨークのSavoy Ballroomに出演するようになった。ニューヨークでのKing Oliverの評判は上々で、早速、Cotton Clubから長期契約のオファーが舞い込んだのだが、King Oliverは提示された出演料に不満を持ち、この申し出を断ってしまった。結局、このオファーはDuke Ellingtonが受けることになるのだが、結果論ではあるものの、King Oliverの判断は大きな過ちであった。Savoy Ballroomの契約が切れたタイミングでDixie Syncopatorsの仕事はなくなり、これが理由でバンドは解散することになってしまう。楽団員の多くはLuis Russellに引き取られたという。
King Oliverは演奏の仕事を失い苦境に陥いるが、それでもニューヨークに留まることを選んだ。なんとか踏ん張った結果、1928年後半には、Clarence Williamsの支援もあり、多くの録音に参加することができた。1929年には自身のバンドでの定期的なレコーディングのオファーを受けており、ビクターで吹き込まれたこの頃の録音には優れたメンバーが多数参加していた。King Oliverの状況は好転したかのように見えた。不幸だったのは、この頃Oliverは歯を痛めており、それがコルネットの演奏にまで影響していたことだった。レコードでのOliverのソロはどんどん短くなり、Punch MillerやRed Allen、Bubber Miley、Oliverの甥であるDave Nelsonがトランペットのソロを取ることもあった。1931年4月に、この一連のレコーディングの仕事が終了する頃には、Oliverの歯はボロボロになり、更には腰痛も患っていたという。
その後もOliverは様々なバンドで南部をツアーし続けていたが、1937年頃についに資金が尽き、ジョージア州のサバンナに定住することになる。果物屋の屋台の経営やプールルーム(玉突き場)の従業員をしていたという。1938年4月にOliverが亡くなった時には、彼の名はすっかり忘れ去られてしまっていた。