Louis Armstrong

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基本情報

生年月日
1900/07/04(New Orleans, Louisiana)
命日
1971/07/06(Corona, New York)
使用楽器
Trumpet, Cornet, Vocals

経歴

Louis Armstrongは、ニューオーリンズの貧しいアフリカ系アメリカ人街で生まれ育った​。子供の頃、ニューイヤーの花火騒ぎでピストルを発砲し更生施設(Colored Waif’s Home)に送られたが、この施設のブラスバンドでコルネットを学び、13歳でバンドリーダーを任されるほどの才能を発揮したという​。音楽教師Peter Davisの下で同施設のバンドに参加した当初はドラムを担当していたが、アルトホルンやトロンボーンを経て、最終的にはコルネットを手にすることとなった。

1914年6月に施設を出ると、Louisはさまざまな日雇い仕事に就くようになった。廃品回収業者の集金や牛乳配達、新聞販売、バナナ船の荷下ろし、石炭の配達などをこなしていたという。

1918年11月には、ニューオーリンズ発の蒸気船Streckfus Steamers号の夜のクルーズ演奏にも参加し、そこで演奏技術を磨くようになっていた。Louisが参加した蒸気船の楽団のリーダーであるFate Marableは律儀な性格をしており、厳格な楽譜演奏を要求する教育者のようであったという。Louis Armstrong自身も後年「大学のようなものだった」と回想するほどであり、ここで得た読譜力やアンサンブルの経験はLouisにとって大きな糧となった​。(なお、同じ頃、Louis Armstrongは、Daisy Parkerとの間で最初の結婚をしている)

1919年初頭、恩師でもあったKing Oliverが北部に移ることとなり、Kid Oryの楽団を去ると、Louis Armstrongがそのポジションを引き継ぐことになった。こうして10代後半から20歳になる頃までの期間で、Louisの奏法は大きく成熟し、読譜力が培われ、優れたトランペット独奏を担うジャズ奏者として突出した存在となっていったのである。ニューオリンズでは、Silver Leaf BandAllen's Brass Bandに参加した他、Papa Clestin's Tuxedo Bandでは定期的に演奏していたようだ。


シカゴ時代(1922–1924)

1922年夏、King Oliverの招きによりLouisはシカゴに移る。King OliverLincoln Gardensと契約をしており、Louisをセカンド・コルネットに迎えたCreole Jazz Bandは、それまで以上の熱狂を以て受け入れられた。

Louisは、このバンドの収入により他の職を辞めるほどの活躍を見せたという。Creole Jazz Bandには、同郷のニューオーリンズ出身のクラリネット奏者であるJohnny Doddsやトロンボーン奏者のHonore Dutreyたちが所属しており、リーダーのKing Oliverも含めニューオリンズ出身の音楽家の中でもトップクラスのメンバーによって構成されていたが、そんな中でも、若いLouis Armstrongに即興演奏が特に人気となり、Lincoln Gardensには彼のコルネットを聴こうとする客が群がったという。

こうしたCreole Jazz Bandでの経験はLouisに大きな飛躍をもたらした。1923年4月には、Creole Jazz Bandで初のスタジオ録音も行い、これがLouis Armstrongのレコードデビューとなった。また、1924年2月5日には、Creole Jazz BandのピアニストであったLil Hardinと結婚している。


ニューヨーク時代(1924–1925)

1924年6月、Louis ArmstrongKing Oliverと袂を分かつと、Ollie Powersの楽団での僅かな活動期間の後、同年9月にはFletcher Hendersonの楽団に加わるためにニューヨークに移った。なお、妻であるLil Hardinがこの決断を後押ししたという話もある。

Fletcher Hendersonの楽団は、当時最高の黒人楽団と称されており、この楽団ではLouis Armstrongはトランペットを演奏した。このニューヨーク時代において、Louis Armstrongは、多くのメンバーに影響を与えており、有名なテナーサックス奏者であるColeman HawkinsLouisからジャズのイディオムを学んだと言われる。

1924年10月にはClarence Williamsのレコーディングに参加し、ここでSidney Bechetとの共演も果たす。その他、Ma RaineyBessie SmithAlberta Hunterといった著名な女性ブルース歌手との録音も残している。このような多彩な共演者との活動を通じ、Louis Armstrongの演奏は研ぎ澄まされていったのである。

一方で、音楽的な充実とは裏腹にLouis Armstrongのニューヨーク生活は幸せとは言い難く、妻であるLil Hardinが病気の母を看病する為にシカゴに帰ってしまったことで、結婚直後であったにも関わらず、離れて暮らしていた。


Hot Five/Hot Sevenの時代(1925–1928)

1925年11月初旬、Louis ArmstrongFletcher Hendersonの楽団を離れると、シカゴに戻る。シカゴでは、妻のLil Hardinが率いるLil Armstrong's Dreamland Syncopatorsに参加する。

そして、同年11月12日には、自身の名義による初のリーダー録音を残すことになった。これが有名なLouis Armstrong's Hot Fiveのレコーディングである。Hot Fiveの主なメンバーには、妻のLil Hardin(ピアノ)の他、Kid Ory(トロンボーン)、Johnny Dodds(クラリネット)、Johnny St. Cyr(バンジョー)が名を連ねており、この5人編成を中心とするメンバーにより、多くの名演を残した。1926年2月の"Heebie Jeebies"はLouis Armstrongのスキャット唱法で有名であり、これがジャズ史上初のスキャット・ヴォーカル録音と言われている。多くの録音でLouis Armstrongのトランペット・ソロがフィーチャーされており、その緻密で表現豊かな演奏は多くのファンやミュージシャンを虜にした。

1927年5月にはPete Briggs(チューバ)とBaby Dodds(ドラム)を加えたHot Seven名義での録音を行った他、同年12月にはHot FiveのメンバーにLonnie Johnsonを加えた6人編成でのレコーディングも残している。

なお、1926年は主にLil Hardinの楽団で活動していた他、Erskine Tate's Vendome Orchestraに加わりVendome Theatreに出演していた。(Erskine Tateの楽団では1926年5月に録音を残している)Erskine Tateの楽団には1927年4月頃まで在籍していたようだ。

また、1926年4月からはSunset Cafeで演奏していたCarroll Dickerson(ヴァイオリン)の楽団に加わり、ここでもLouisの演奏は評判を呼んだ。その後、同会場にてLouis Armstrong and his Stompersという自身の楽団で活動するようになる。(ちなみに、この楽団の音楽監督はCarroll Dickersonの同僚であったピアニストのEarl Hinesが勤めた)

ちなみに、Louisが後にマネージャーとなるJoe Glaserと初めて出会ったのは、Carroll Dickersonの楽団に在籍していた時のことである。

1927年11月下旬には、Earl HinesZutty Singltonと共に自身のクラブを経営していたという話もある。(1928年6月から7月にかけて、Earl HinesZutty SingltonとはにLouis Armstrong's Hot Five名義の録音も残している)

1928年3月になると、Carroll Dickersonと再合流し、Savoy Ballroomで演奏している。


1930年代の活動

1929年2月、Louis Armstrongは一時的にニューヨークを訪れたが、ほどなくしてシカゴに戻り、Carroll Dickersonと共演した。同年5月にはDickersonとともに再びニューヨークへ進出し、その後はConnie's Innに定期的に出演するようになった。

1930年1月のこと、Louis ArmstrongはワシントンD.C.でLuis Russellの楽団にゲスト出演する。翌月にはConnie's Innを離れて、Cocoanut Groveで演奏を開始している。同年4月には、ドラマーのWillie Lynchが率いるMills Blue Rhythm Bandに同行し、ボルティモアで演奏している。

同年7月にはカリフォルニアに移り、キャバレーのソリストとして活動。翌年3月には、シカゴに戻ると、そこではLouisのために大編成のバックバンドが編成された。この編成でのツアーや常設公演はニューヨークなどでも行われ、1932年3月にバンドが解散するまで続いた。その後、再びカリフォルニアで演奏していたが、1932年6月にはアメリカ西海岸を離れ、初のヨーロッパ・ツアーを実現する。帰国後の1932年12月末にはフィラデルフィアでChick Webbの楽団と共演している。

1933年8月からは再びヨーロッパ・ツアーに行き、イギリス、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、オランダを巡演した。1934年春にはパリに滞在。ここで長めの休暇を取った後、同年11月にパリでコンサートを行った後、ベルギー、スイス、イタリアへとツアーを続ける。

アメリカに帰国したのは1935年1月のことで、この時期に唇のトラブルがあり、一時的に活動を中断する。ちなみに、Joe GlaserがLouisのマネージャーとして正式に活動を開始したのは、この頃のことである。

1935年9月頃からはLuis Russellの楽団をバックバンドに従え、自身の名義を冠したバンド名で活動を継続する。1930年代後半にかけて、この楽団と共に各地でツアーや定期公演を行っている。(ちなみに、Luis Russellの楽団のメンバーは大きく入れ替わったが、Luis Russell自身は1943年までLouisの下でピアノを弾き続けた)

なお、1931年に別居していたLil Hardinとは1938年末に正式に離婚し、その後、Alpha Smithと再婚している。

Louis Armstrongの映画出演が本格的に開始したのはこの頃のことであり、Bing Crosby主演の『Pennies from Heaven』への出演は特に有名である。


1940年代以降

1940年末にJoe GarlandLouis Armstrongのビッグバンドの音楽監督に就任した後も、Luis Russellは引き続きバンドに在籍していた。

1942年秋、Louis ArmstrongはLucille Wilsonと結婚。これが4度目にして、彼の生涯最後の結婚となった。

Louisのビッグバンドは1947年夏まで活動を続けていたが、世間では小編成ジャズバンドへの関心が高まりつつあり、ついにビッグバンドを解散。そして1947年8月13日、新グループであるAll Starsが正式にお披露目された。

このAll Starsは、メンバー交代を重ねながらも着実に成功を重ね、1940年代後半から1950年代にかけて伝統的ジャズの牽引役として活躍した。アメリカやカナダに加え、ハワイ、ヨーロッパ、オーストラリア、日本、南アメリカ、アフリカなど、世界各地を巡るツアーを展開することとなる。

1959年6月から7月にかけて、Louisはイタリアで体調を崩し、バンドの活動も一時的に中断されたが、数週間でステージに復帰。その後もAll Starsは、1960年代を通じて国際ツアーをさらに拡大し、世界的な人気を確立していった。

これと並行して、1950年代には『上流社会(High Society, 1956年)』や『5つの銅貨(The Five Pennies, 1959年)』といった映画出演でも成功を収め、1960年代には全米ポップチャートでも躍進を続けた。1964年の「Hello, Dolly!」は全米1位を記録し、1967年の「What a Wonderful World」は世界的なメガヒットとなり、映画やCMで繰り返し使用される不朽の名演として広く親しまれている。

1971年3月、ニューヨークでのAll Stars公演を終えた直後に心臓発作を起こし、2か月間入院。その後は自宅で療養していたが、1971年7月6日、69歳で永眠した。