Plantation Cafe
説明
1920年代のシカゴ南部「ストロール」と呼ばれた歓楽街で人気を博したジャズクラブの一つで、黒人・白人の双方が入場できる「ブラック・アンド・タン(black-and-tan)」と呼ばれる種の店だった。Plantation Cafeは1920年代半ばから1930年代初頭にかけて、シカゴ・サウスサイドのジャズシーンを代表するクラブの一つであり、その舞台には当時を代表するジャズ楽団が数多く出演した。
Plantation CafeはもともとAuto Innと呼ばれたクラブが前身であり、白人実業家であるAl Tierneyが経営していた。Al Tierneyが1923年にAuto Innを一時閉鎖し、内装を一新して翌1924年に再オープンさせたのがPlantation Cafeの始まりである。
店名の"プランテーション"は南部の農園のことを意味しており、1920年代当時流行していた「プランテーション」テーマの娯楽にあやかったもの(Cotton Clubと同じコンセプト)であった。もっともPlantation Cafeは人種差別的な入場制限のあったCotton Clubとは異なり、「黒人と白人の双方に門戸を開いた黒白混交のナイトクラブ」であった。開業に際しては「ジャズ音楽界の水準を引き上げる」という高い理念を掲げ、南部の黒人音楽を洗練された形で観光客にも提供しようという試みがなされたと伝えられる。しかし実際には、禁酒法下のシカゴにおける典型的なキャバレーとして運営されることになり、当初謳われた理想が完全に実現することはなかった。
クラブの所在地はシカゴ南部の中心街ブロンズビル、東35丁目とサウス・カリュメット街の角付近である。この地区は黒人居住区内にありながら白人客も集める盛り場「ストロール」の一角であり、近隣にはDreamland CafeやSunset Cafeなど他の有名クラブが軒を連ねていた。
Plantation Cafeの建物は赤レンガ造りの3階建てで、塔屋のある特徴的な外観を持ち、入口には「PLANTATION CAFÉ」の看板が掲げられていた。店の周辺はジャズの音色に包まれ、多様な人種の群衆でにぎわっていたと伝えられる。
1920年代のシカゴはニューオーリンズから北上した黒人ミュージシャンたちによりジャズが開花し、全米有数のジャズ都市となっており、Plantation Cafeは、そうしたシカゴ南部ジャズ・シーンの中心地「ストロール」における主要クラブの一つであり、開業直後からその地位を確立していたという。当時、黒人客と白人客が同じフロアで踊り音楽を楽しめるブラック・アンド・タンのクラブは珍しく、人種分離の風潮を超えて新しい社交の場を提供していた。とりわけ、Plantation Cafeは、通り向かいに位置したSunset Cafeと人気を二分していた。
実際、1926年当時にDave Peytonが書いたコラムでは、Sunset Cafeの出演バンドとPlantation CafeのKing OliverのDixie Syncopatorsが互いに競うように熱演を繰り広げた話が扱われており、「あまりの白熱ぶりに消防署が35丁目にホースを配備しようとしている」とユーモラスに描写されている。
このようにPlantation Cafeは活気あふれるジャズ・クラブとして、地元の黒人社会だけでなくジャズを嗜む白人層にも知られた存在だった。
一方で、こうした繁盛の裏には当時の社会状況特有の影があったことも忘れてはならず、禁酒法時代のシカゴではギャング勢力が酒の密売やナイトクラブ経営に深く関与しており、Plantation Cafeも例外ではなかった。違法な酒提供を取り締まる警察当局により度重なる手入れが行われ、1927年1月には近隣クラブと同時に摘発を受けたとの記録もある。
更に、1927年春には店内で爆発事件と火災が発生し、建物が焼失する壊滅的被害を受ける。この火災の原因は不審火であり、当時暗躍していたギャング団同士の抗争や用心棒代を巡るトラブルが背景にあった可能性が指摘されている。(Plantation Cafeだけでなく同時期のシカゴ黒人街の有力クラブ(Entertainer CafeやLincoln Gardens等)が謎の火災により相次いで閉店に追い込まれており、華やかなジャズの舞台の裏側には暴力的な力学があったことが分かる。
いずれにしろ、この爆発事件によりPlantation Cafeは、閉店を余儀なくされたのである。
開店時(1924年10月)には、Dave PeytonのSymphonic Syncopatorsがハウスバンドを務めており、ダンス演奏のみならずレビュー形式の舞台ショーなども担当し、Plantation Cafe初期の人気を支えた。Dave Peytonはシカゴの地元紙である「シカゴ・ディフェンダー」で音楽コラムを執筆しており、その信用もあって、彼の楽団が演奏することでPlantation Cafeの格調は高まった。
1925年になると、ニューオリンズ出身のコルネット奏者であるKing OliverがSymphonic Syncopatorsに身を寄せる。1924年末にLincoln Gardensが火災により失われたため、そこを拠点としていたKing Oliverが職を求めて移動してきたという事情であった。King OliverはSymphonic Syncopatorsに自身の仲間であったアメリカ南部出身の優秀なプレイヤーを招き入れ、1925年2月頃には、この楽団はKing Oliver's Dixie Syncopatorsと名を変えることになる。
King Oliver's Dixie Syncopatorsは、1925年からPlantation Cafeが閉店する1927年春までの約2年間の間、看板バンドであった。著名な女性ブルース歌手であるIda Coxがシカゴ滞在中にDixie Syncopatorsに客演し、Plantation Cafeで共演したという記録も残っている。
前述の爆発事件・火災によってクラブは壊滅的被害を受け、警察当局からも営業許可取消しの命令が出された為、Plantation Cafeはその歴史に幕を下ろした。(Dave Peytonが1927年中頃に自らの楽団を率いてNew Plantation Cafeで演奏したという証言もあり、別の場所で営業継続を試みた可能性もある。正式には、禁酒法廃止後の1934年に営業を再開しているが、その後は、かつてのような大きな足跡を残すことはなかった)