Pete Lala's

提供: 初期のジャズ

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時期

1906年 ~ 1917年

出演者


説明

Pete Lala'sは、1900年代初頭のニューオーリンズにおいて最も著名なジャズ演奏拠点の一つである。

合法的売春地区であったストーリーヴィルに存在した同店は、当時「最も人気のある黒人向けキャバレー」であり、多くの一流ジャズ奏者を擁するバンドが夜毎演奏を繰り広げていた。ストーリーヴィル内でも例外的に黒人客を受け入れていた社交場であり、午前4時頃になると、仕事を終えた楽団員たちがPete Lala'sに集まったという証言も残っている。

Pete Lala'sは、ジャズ創成期において、ジャズ王と呼ばれたトランペット奏者たちの世代交代を見届けた象徴的な舞台でもあった。1906年にBuddy Boldenが第一線を退いた後、彼に続く若手黒人音楽家たちが本格的に活躍し始めたのがこの店であった。例えば、コルネット奏者のFreddie Keppardは、1907年から1911年頃にかけて、この店を含む複数のクラブで定期的に演奏し名声を高めていったし、1917年冬にはシカゴから訪れた興行主が同店でKing Oliverの楽団の演奏を聴き、その場で契約を交わして、北部巡業に起用したという話も残っている。

Pete Lala'sはニューオーリンズの旧市街ランパート通りの北側、イベールビル通りとマーリス通りの角に位置していた(現在の住所では1300 Iberville付近)。1906年発行の売春街案内「ブルーブック」にも同店が既に掲載されており、当初はPete Lala's Cafeとして飲食主体の店から始まり、その後キャバレー(音楽酒場)へと発展したとされている。

店名は、経営者のPeter Ciaccioの愛称に由来する。イタリア系移民であった彼は当時のシチリア系マフィアとも関係が深く、ストーリーヴィルに数軒あったイタリア人経営のクラブ(例えば、John T. Lalaが経営する「ビッグ25」など)を束ねる一派に属していた。そのためPete Lala'sは「マフィアと繋がった店」としても知られており、裏社会の威光ゆえに音楽家への報酬支払いなどが比較的「確実」な優良仕事口とみなされていたようだ。

建物構造は一階正面が酒場兼ダンスホール、奥に賭博場、二階は時間貸しの客室という典型的なストーリーヴィル様式であった。同地区では高級売春館の多くがピアノ独奏のBGMを流すだけだったのに対し、Pete Lala'sのような酒場兼ダンスホールは早くからラグタイムやブルースを演奏する黒人バンドを雇用し、歓楽街の活気を支えていた。特に、Pete Lala'sは黒人客にも門戸を開いた「ブラック&タン」(人種混淆)型の店として賑わっており、深夜から明け方にかけては楽団員や娼婦・ポン引きたちが集結する社交のハブの役割を果たしていた。

店内にはビリヤード台も置かれて演奏の合間に客と音楽家が玉突きを楽しむなど、自由奔放な雰囲気であったと伝えられる。ピアニストのJelly Roll Mortonは同店で起きた乱闘の体験を語っており、自らビリヤード球で相手を殴打してしまった際に「あいつは血の気の多い“Winding Boy”だ、命が惜しけりゃ手出し無用」と渾名される事件があったという証言を残している。この逸話からは当時のストーリーヴィルの無法かつ熱気ある社交環境を覗うことができる。

ストーリーヴィル地区全体が1917年11月の市条例で閉鎖に追い込まれると、Pete Lala'sも店舗としての営業を終了した。しかし、Peter Ciaccioはその後も音楽興行への関与を続け、地区閉鎖の直前にはクラバーン街とセントルイス街の角に、Lala's Theaterを構えてダンスホール営業を行っていた。(Sidney Bechetら数名の楽団員が1917年6月頃に、このLala's Theaterに雇われて演奏を続けていたとの記録がある)

さらに、ストーリーヴィル閉鎖後の1919年には、Peter Ciaccioは市内で再びダンス事業に乗り出そうと試みており、当時、自主興行で成功していたKid Oryから利益を横取りしようと画策したという話がある。裏社会とも繋がるPeter Ciaccioの圧力を恐れたOryはその後ロサンゼルスへ活動拠点を移す決断を下した。

出演バンドの変遷

1906年頃

店の開業当初の1906年頃は、Buddy Boldenのバンドが既に活動停止間近であった時期にあたるが、Boldenの退場後に台頭した新世代バンドが同店で頭角を現した。具体的には、旧Buddy Bolden's Bandを再編成したトロンボーン奏者Frank Duson率いるEagle Bandや、コルネット奏者Manuel PerezImperial Orchestraなどが人気を博し、若きFreddie Keppardもそれら複数の楽団で腕を磨いたという。

1907年~1910年頃

Kid OryのバンドがPete Lala'sの看板バンドとして活躍していた黄金期である。1907年に出演して以降、数年間にわたりレギュラー出演を続けたKid Oryの楽団は、黒人ジャズの新機軸である集団即興演奏を売り物に客足をつかんだ。そのメンバーには、後に著名となるJoe Oliver(コルネット)やJohnny Dodds(クラリネット)、Jimmie Noone(クラリネット)らが出入りしており、この楽団は初期ジャズ人材の揺籃ともいえる存在であった。また、同時期に、Frank DusonEagle Bandも当店に出演した他、Freddie Keppardも活躍しており、その熱気あるコルネット演奏から「第二代キング」の異名をとっていた。

1911年~1914年頃

Bunk Johnsonが自身のバンドで出演したのは、この時期である。ニューオーリンズ生まれの黒人コルネット奏者のBunk JohnsonBuddy Bolden時代からの古参のミュージシャンであり、1910年代初頭のEagle BandOriginal Superior Orchestraを経て、Pete Lala'sで演奏するようになった。Bunk Johnsonは、当店で暫くレギュラー演奏した後、1914年頃にニューオーリンズを離れている。

また、King Oliverの楽団が当店の主力となった時期でもあった。1913年の夏のある夜、Pete Lala'sで女性歌手Lizzie Milesが「Careless Love」を歌い、それに合わせて、コルネット奏者のKing Oliverがそれに呼応するような即興ソロを披露したという話が残っている。当時のKing OliverFreddie Keppardの有力な後継者と目されており、Pete Lala'sはストーリーヴィル随一のトランペッターが聴ける店として名を馳せていた。

1914年頃には、King Oliverの楽団に、若き天才クラリネット奏者Sidney Bechetが加入し、ヴァイオリンのFerdinand Valteau、ピアノのManuel Manetta、ドラムのHenry Zenoらと共に演奏していた。この時のOloverBechetのコンビは、後年になって多くの証言で言及される伝説的な共演であり、当時のPete Lala'sのハイライトでもあった。

1915年~1917年

King Oliverの楽団の全盛期であり、同店での人気は最高潮に達した。ストーリーヴィル閉鎖直前までKing Oliverはレギュラー出演を続けており、当時10代前半だったLouis ArmstrongOliverの演奏を聴くため店先に通ったと述懐している。

1917年初頭、前述の通り、King Oliverの楽団はシカゴ興行師に見出されて契約を結ぶことになるが、その契約でシカゴへ興行に赴く寸前まで、彼らはPete Lala'sで演奏していた。また、Sidney Bechetも同年6月までLala's Theaterの方で演奏を続けた後、欧州公演団への参加のため、渡欧している。なお、1917年11月の売春地区閉鎖によりPete Lala'sは営業停止となった。

1918年~1919年

ストーリーヴィル閉鎖後、一部の演奏活動はLala's Theaterなどの新拠点に引き継がれた。King Oliverが旅立った後もニューオーリンズに残っていたKid OryLouis Armstrongを自らのバンドに迎えて市内でダンス興行を行った(1918年)が、その成功にPeter Ciaccioが目を付けトラブルになったのが1919年であった。

最終的に、Kid Oryを含む主要な楽団はニューオリンズを離れることとなり、アメリカ南部のジャズ黄金時代は一時的な中断を迎えることになる。