Clarence Williams
基本情報
生年月日 |
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1898/10/08(Delta, Louisiana) |
命日 |
1965/11/06(Queens, New York) |
使用楽器 |
Piano |
経歴
Clarence Williamsは、ジャズ草創期に活躍したピアニストであり、バンドのリーダーであり、更には実業家でもあった。父は、ベース奏者のDennis Williams。ブルース歌手のEva Taylorと結婚し、娘も歌手となった。
ピアニストとしての活動としては、1920年代のブルース歌手の伴奏を務めた録音が多く、この時期の重要なブルース歌手を網羅するかのような膨大な録音は圧巻である。
彼が調整役となってメンバーを編成した録音は、必聴の価値のある名盤となっているものが多い。
更にClarence Williamsが書いた曲は、全米で人気を得てディキシーランドジャズのスタンダードとなったものが多く、出版社の立ち上げやキャバレーの経営等、音楽ビジネスでも成功を収めており、ジャズ草創期を語る上では避けては通れない存在と言える。
Clarence Williamsは、1906年に家族と共にニューオリンズに移り住み、ストリービルでピアノを弾いていた他、12歳の頃からミンストレル・ショーの司会者やダンサー、歌手としても活動していた。
音楽教師のOphelia Gould Smithの指導の元でピアノに専念するようになると、1913年頃から曲も書き始めたという。本人も忘れていた曲「Brownskin, Who You For?」がニューヨークで録音された際に受け取った小切手の額面1,600ドルは、Clarence Williams本人によると、当時のニューオリンズの作曲者の中で最も高い金額だったという。
その真偽はともかくとして、Clarence Williamsが音楽出版に興味を持っていたのは確かなことで、1915年頃にはヴァイオリン奏者であったArmand J. Pironと共に出版社を立ち上げ、数年間営業を続けた。1917年にはArmand J. Pironと共にヴォードビルの楽団を結成し、ツアーをして回り、ここでも成功を収めた。
Armand J. Pironと共に設立した会社は解散することになるが、1920年頃にはシカゴに移り住み、楽器店を経営する。更にニューヨークに進出したClarence Williamsは、今度は音楽出版社を立ち上げる。1921年にブルース歌手のEva Taylorと結婚する。なお、このEva Taylorはラジオ番組に出演する人気歌手であった。
1923年頃に確立されたClarence Williamsの音楽ビジネスのスタイルは、非常に収益性が高く、大成功を収めることになるが、これは、Clarence Williams自身が曲を書き、自分の経営する出版社で楽譜を出版すると、これを自分の店で売る為に、妻にラジオ番組で歌わせるというものだった。1923年から1928年にかけてClarence WilliamsはOKehレーベルのスカウトとしても活動していたのだが、自身の録音の為に最高の演奏者を手配することができたこの環境も、彼の成功を後押しした。
彼のセッションに参加していたメンバーを見ると、その質の高さは圧巻で、著名なところだけでも、Sidney Bechet、Thomas Morris、Charlie Irvis、Louis Armstrong、Buster Bailey、Bubber Miley、Tommy Ladnier、Jimmy Harrison、Coleman Hawkins、Louis Metcalf、Cecil Scott、King Oliver、James P. Johnson等、錚々たる名前が並ぶ。(ちなみに、ピアニストのJames P. Johnsonとの録音はピアノデュオもあるが、Clarence Williamsがピアノではなく歌を歌っている録音が多い)
1920年代から1930年代前半には膨大な録音を残した一方で、1930年代後半からは作曲に専念するようになり、録音に参加する頻度も減っていた。(1938年に3曲、1941年に2曲の録音がある) Clarence Williamsの音楽ビジネスは大成功を収めていたが、1943年に2000曲以上のカタログをデッカに5万ドルで売却すると、音楽ビジネスからは引退する。
1956年にタクシーにひかれて失明するという事件もあったが、晩年はニューヨークでバーゲン店を経営しながらEva Taylorと幸せな結婚生活を送っていたようだ。