Fletcher Henderson
基本情報
生年月日 |
---|
1897/12/18(Cuthbert, Georgia) |
命日 |
1952/12/28(New York, New York) |
使用楽器 |
Piano |
経歴
Fletcher Hamilton Hendersonはジャズ草創期に活躍したピアニストであり、編曲者や楽団のリーダーとしても知られている。Fletcher Hendersonが1920年代に率いていた楽団は、当時、最も商業的に成功した黒人バンドといっても良い存在であった。楽団のメンバーからは"Smack"の愛称でも親しまれていた。なお、弟のHorace Hendersonもピアニストである。
1897年にジョージア州で生まれたFletcher Hendersonは、中流階級の黒人家庭で育った。父は学校校長であり、母も教師をしていた。ピアノは6歳の時に母に教えられたという。Fletcher Hendersonは才能のあるピアニストであったが、学業の道に進み、地元の学校に通った後、1916年からアトランタ大学に入学し、そこで化学と数学の学位も取得した。
1920年にニューヨークに移り、大学院で研究をするつもりであったが、Pace-Handy Music Companyで歌の伴奏をする仕事に就くことになった。その後、Pace-Handy Music Companyを辞め、Black Swan Recording Companyの音楽監督になり、そこで1921年から1923年まで仕事をした。Ethel Watersをフィーチャーしたツアーに参加したのも、この時の話である。
1924年初頭にニューヨークのClub Alabamで結成されたバンドのリーダーとなり、その後、Roseland Ballroomの契約を得ると、それからの10年間はRoseland BallroomがFletcher Hendersonの楽団の拠点となった。楽団はRoseland Ballroomだけでなく、ニューヨークの多くのクラブや劇場でも演奏し、さらには定期的なツアーで他の都市も訪れた。(なお、Fletcher Hendersonは1928年8月に交通事故に遭い、この時は一時的に活動を休止していた)
バンド結成の際にFletcher HendersonがシカゴにいたLouis Armstrongを誘ったことは、Fletcher Hendersonの楽団が成功した要因のひとつだ。Louis Armstrongが楽団のメンバーにジャズのイディオムを伝えたことは間違いなく、更にLouis Armstrongの紹介で加入したクラリネット奏者のBuster Baileyは演奏面で戦力になった。
また、楽団にはDon Redmanという優れた編曲者がいたことも無視できない。Don Redmanが加わる以前の楽団のサウンドは当時の多くのダンスバントと同じくディキシーらしいスタイルだったと伝えられている。大学で音楽を専攻していたDon Redmanの考えを取り入れることで楽団は新たな次元を切り開いたと言っても過言ではない。
更に、この楽団はColeman HawkinsやBenny Carterといったスターになり得るミュージシャンを擁していた。
1924年10月に楽団に参加したLouis Armstrongは1925年11月に脱退し、編曲担当としても貢献していたDon Redmanも1927年には楽団を去った。Don Redman脱退後も、編曲のできるBenny Carterがいたことで、なかなか編曲をする必要性には迫られなかったようだが、1930年代初頭にはFletcher Hendersonも編曲に取り組むようになっていた。
1929年に起きた株式市場の暴落から世の中が不況になると、彼の楽団も徐々に財政的な問題を抱えるようになっていった。才能のあるメンバーを他の楽団に引き抜かれることも多かったという。
1930年代半ば頃になると、Fletcher HendersonはBenny Goodmanに編曲を提供するようになった。自身の楽団で1920年代後半から1930年代初頭にかけて演奏されたアレンジを楽譜に転記してBenny Goodmanに販売したのだという。実際、Benny Goodmanのスウィング期におけるヒットは、Fletcher Hendersonの手によるものが多かった。
1939年になると、Fletcher Hendersonは自身のバンドを解散し、Benny Goodmanの楽団にピアニスト兼編曲者として加入。その後、すぐにスタッフ編成担当となると、Benny Goodmanの下ではピアノを弾かなくなった。
1940年代はニューヨークやシカゴ、カリフォルニアで自身のバンドを率いて活動し、1948年夏から1949年12月まではEthel Watersのツアーに伴奏者として同行している。
1950年12月にはニューヨークで自身のシクステットを率いていたが、同年12月21日に脳卒中を患うと、その影響で身体が部分的に麻痺し、長期入院を余儀なくされた。演奏に復帰することは無かった。