Paul Barbarin
基本情報
生年月日 |
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1899/05/05(New Orleans, Louisiana) |
命日 |
1969/02/10(New Orleans, Louisiana) |
使用楽器 |
Drums |
経歴
Adolphe Paul Barbarinはシカゴやニューヨークでも活躍したニューオリンズ出身のドラム奏者である。父親のIsadore Barbarinも著名な金管奏者であり、三人いる兄弟は皆ミュージシャンになった。ドラム奏者になった弟のLouis Barbarinは、特に有名である。また、甥にはギター奏者のDanny Barkerがいる。
Paul Barbarinが最初に手に取った楽器をクラリネットであったが、貨物輸送の職員として働いた収入でドラムセットを購入し、すぐにSilver Leaf OrchestraやYoung Olympia Bandでドラム奏者として演奏するようになった。(Young Olympia BandではBuddy Petitと共演している))
1917年にニューオリンズを離れてシカゴに渡ると、Rinsberg CafeでピアニストのClarence Parsonと演奏。その後、Roi WolfscaleやEddie Vincentのバンドに加入している。1920年にはTennessee Tenのツアーでカナダを訪問すると、シカゴに戻るまでの8か月間、コネチカット州サウスノーウォークで自身のトリオを率いていた。シカゴでは、短期間だがFreddie Keppardの下で活動し、その後、Paradise ClubでJimmie Nooneと活動した。
1923年頃にニューオリンズに帰郷した際に、Luis Russellの楽団に加入し、Tom Andersonの店で演奏した他、Onward Brass BandやExcelsior Brass Bandでパレードの仕事をした。
1924年末に再度シカゴに戻ると、今度はKing Oliver's Dixie Syncopatorsに加入し、ここには1927年夏まで在団しており、この楽団の録音にも参加している。Dixie Syncopatorsが拠点にしていたPlantation Cafeが火事で焼失する事件があり、楽団はニューヨークに移り、Savoy Ballroomに出演するようになる。
Savoy Ballroomとの契約が切れたタイミングで、King Oliver's Dixie Syncopatorsは解散し、Paul Barbarinはニューオリンズに帰郷する。ニューオリンズではWalter PichonやArmand J. Pironと仕事をしていた。
1928年夏。Paul Barbarinはニューヨークに戻り、Nest Clubで演奏をしていたLuis Russellの楽団に加入すると、ここには1932年1月まで在団していた。なお、この時期、King Oliver、Jelly Roll Morton、Henry "Red" Allen、Louis Armstrong等のレコーディングにも参加している。
1930年代前半はニューヨークで自身のバンドを結成した他、ニューオリンズに戻り、故郷でバンドを率いていたが、1934年頃にLuis Russellと再開すると、その縁もあり、1938年後半までLouis Armstrongの楽団で活動していた。
1939年前半にはニューオリンズに戻り、自身のバンドを率いるがすぐに解散し、Joseph Robichauxの率いるNew Orleans Rhythm Boysに加入。1940年には、自身のバンドでニューオリンズのVinette's Clubに出演している。
1941年には短期間であるがLouis Armstrongと活動し、1942年から1943年夏まではHenry "Red" Allenのセクステットで活動。1943年後半んは自身のバンドでイリノイ州で演奏しており、その後、ニューオリンズに戻っても、自身のバンドで活動を続けた。
1950年代にも自身のバンドを率い続け、ニューオリンズのパレードにも参加しいていた。1953年にはシカゴでArt Hodesと仕事をしたが同年8月にはニューオリンズに戻り、自身の小編成のバンドで大成功を収めた。
1960年に、ニューオリンズでOnward Brass Bandを結成。1960年代は、このOnward Brass Bandを率いて、よくパレードに参加していた。(なお、Manuel PerezのOnward Brass Bandとの直接の関係はない同名のブラスバンドである)1969年2月にブラスバンドでのパレードに参加中に没する。