Alphonse Picou
基本情報
生年月日 |
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1878/10/19(New Orleans, Louisiana) |
命日 |
1961/02/04(New Orleans, Louisiana) |
使用楽器 |
Clarinet |
経歴
Alphonse Floristan Picouは、ニューオリンズ出身のクラリネット奏者であり、Johnny DoddsやJimmie Nooneなどのジャズ草創期の重要なクラリネット奏者にも影響を与えていたと言われている。一方で、その音楽キャリアの殆どを故郷のニューオリンズで過ごした為、1940年代にニューオリンズ再認識のブームが起きるまでは、一般のジャズファンにはあまり知られた存在ではなかった。
Alphonse Picouは、14歳の時にはギターを弾いていたが、15歳からクラリネットを始めると、その翌年にはクラリネット奏者として活動するようになった。Alphonse Picouの家族は彼が音楽で身を立てることに反対の立場をとっており、当初はAlphonse Picouは鍛冶屋の下で修行していたようだが、彼のクラリネットの腕前から多くの引き合いがあり、音楽で生計を立てるようになったと言われている。
最初のレギュラー契約はトロンボーン奏者のBouboul Fortunes Augustaが率いるバンドの下での演奏であった。その他にも、1890年代後半にはクラシックの楽団での演奏をした他、Oscar DuConge、Bunk Johnson、Dave Peyton、Wooden Joe Nicholas、Manuel Perezと演奏する機会があったようだ。
1900年から1915年にかけては、Excelsior Brass Band、Freddie Keppardの率いるOlympia Orchestra、George Moretの楽団などで過ごした。
1917年(1915年説もあり)には、仲間のミュージシャンたちを追うようにシカゴへと北上し、Arsonia CafeでManuel Perezと演奏するが、すぐに故郷のニューオリンズに戻ってきている。帰郷後は、John Robichaux's Orchestra、Camelia Brass Band、Golden Leaf Orchestra、Tuxedo Brass Band等で演奏したという。
1920年代には、King Oliverからの依頼を受け、Creole Jazz Bandの為に楽曲("Alligator Hop")を提供している。また、本人が主張するところによると、Clarence Williamsのレコーディングにも参加したとのことで、これが事実であれば、ニューヨークを訪れていたのかもしれない。(レコードレーベルの資料では1920年代のAlphonse Picouの録音は確認できなかった)
定期的な音楽活動を続けていたAlphonse Picouであったが、1932年にプロとしての音楽活動から離れ、元の職業である鍛冶屋に戻る。
Alphonse Picouが職業音楽家に復帰したのは、1940年のこと。1940年8月にKid Renaのレコードに参加した他、1944年からはClub Pig Penでの定期的な演奏の仕事を得る。1940年代後半になるとPapa Celestinと共に活動するようになり、録音も残している。1950年代初頭にはRichard Alexisが率いるTuxedo Bandに参加。
1950年代後半にはEureka Bandにゲスト参加する機会もあったが、この頃は自身の娘が所有するニューオリンズの不動産の管理を仕事としていたようである。1961年のAlphonse Picouの葬儀は、当時の市内では最大規模のものとなり、大きな話題を呼んだ。
Alphonse Picouに関わる逸話としては、ニューオリンズにおけるスタンダード曲「High Society」に関するものであろう。この曲の緩やかなメロディーの裏でピッコロのパートを引用したパラフレーズを吹いたのがAlphonse Picouであり、このクラリネットソロが流行したことにより、これはニューオリンズのクラリネット奏者の定番のフレーズとなった。即興性を重んじるジャズには珍しく、Alphonse Picou以降のクラリネット奏者は、ソロの1コーラス目ではAlphonse Picouのソロを引用し、その後の2コーラス目で即興演奏をすることが定番となっている。
なお、録音として残されている「High Society」のクラリネットソロで最も古いものは、1923年のJohnny Doddsの音源だと思われる。その翌年には、Jelly Roll Mortonの楽団のセッションで"Balls" Ballがこのソロにチャレンジしているので、1920年代のシカゴでも、このソロは定番の扱いだったと思われる。(但し、残念なことに"Balls" Ballのクラリネットソロは吹けているようには聴こえない)