Benny Goodman
基本情報
生年月日 |
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1909/05/30(Chicago, Illinois) |
命日 |
1986/06/13(New York, New York) |
使用楽器 |
Clarinet |
経歴
Benjamin David Goodmanは、スウィング時代のクラリネット奏者であり、「King of Swing」として知られる楽団リーダーであった。貧しい白人家庭に生まれたBenny Goodmanであったが、10歳の頃から地元でクラリネットを習い始め、12歳の時にはJohnny Sylvesterに師事。更にFranz Schoeppの個人レッスンを受けたという。
1921年にシカゴで行われたタレント・コンテストでTed Lewisを真似たプレイを披露したという。13歳の時には既に音楽家組合に加入しており、1920年代前半は、地元の少年バンドで演奏していた。(なお、この少年バンドにはJimmy McPartland、Dave Tough、Art Hodesが参加していた)
13歳の頃から様々なバンドでギグを行っており、1923年夏には五大湖の蒸気船ツアーの為の演奏バンドの仕事をしており、こうした活動の中でBenny GoodmanはBix Beiderbeckeとの出会いがあったとされる。
Benny Goodmanは、1925年頃にシカゴにいたBen Pollackと契約し、共にカリフォルニアに渡り、ロサンゼルスのVenice Ballroomに出演した。1926年1月にBen Pollackと共にシカゴに戻ると、バンドの定期的な仕事も無かったことから自由契約でギグをこなす日々を送った。1926年のBen Pollackとの活動は不定期であったが、1927年2月には定期的な仕事が入るようになり、1927年夏にはバンドと共にアメリカ西海岸のツアーに出かけた。1927年後半に約2ヶ月程バンドを離れたことはあったが、その後はBen Pollackのバンドで活動を続けた。1928年3月にはBen Pollackと共にニューヨークに移住する。(Ben Pollackのバンドでは時折アルトサックスとバリトンサックスを演奏しており、クラリネット以外の楽器を担当するBenny Goodmanの貴重な録音も残されている)
Benny Goodmanは、1929年9月にBen Pollackのバンドを離れ、翌月から1930年1月まではRed Nicholsの下で演奏する。1930年は自由契約での仕事が増え、ブロードウェイやラジオで演奏をした他、定期的なレコーディングにも参加する。Red NicholsやTed Lewis、Joe Venuti等の録音に参加した他、自身のレコーディングバンドを率いたこともあった。
ニューヨークのBilly Rose's Music Hallの仕事の為に最初のレギュラーバンドを結成したのが1934年6月のことである。このバンドは同年10月までBilly Rose's Music Hallに出演し、同年12月から1935年5月まではラジオ番組「Let's Dance」で定期的に演奏した。このラジオ番組の出演に際して、バンドが用いる編曲が不足しており、バンドのマネージャーであったJohn HammondがFletcher Hendersonに編曲を提供するように依頼する。資金難に陥っていたFletcher Hendersonはこれを快諾し、こうしてBenny Goodmanの楽団はFletcher Hendersonの編曲を採用するようになった。
1935年7月に初の全国ツアーを開始。1935年8月21日のロサンゼルスのPalomar Ballroomでの演奏がきっかけで、Benny Goodmanの楽団は、国内だけでなく国際的にも知られるようになった。この成功が後押しとなり、1935年11月から1936年5月までの間、バンドはシカゴのCongress Hotelで長期の演奏契約の仕事をこなし、その後、ニューヨークに戻ってからも忙しい日々を送った。1936年は最初の映画「The Big Broadcast of 1937」を制作した年でもあり、この映画ではBenny Goodmanのカルテット(Lionel Hampton、Gene Krupa、Teddy Wilson)がフィーチャーされた。
1938年1月16日は、Benny Goodmanの活動の中でもとくに有名なCarnegie Hallでのジャズ・コンサートが行われ、これも大成功のうちに終わる。1938年夏は休暇を取り、ヨーロッパで過ごすが、すぐに音楽活動を再開。1939年8月、Benny Goodmanの楽団はCharlie Christianを見出し、彼と契約。その後、Benny Goodmanの病気の為、バンドが解散を余儀なくされるまで楽団の指揮を取り続けた。
1940年7月に音楽活動を休止し、坐骨神経痛の手術を受けるが、同年10月には自身のシクステットで復帰。同年10月25日にはビッグバンドを再結成している。
1940年代以降も、ビッグバンドやコンボを率い続け、多くのステージでクラリネットのソリストとしての演奏を披露していた。その活動はアメリカ国内だけでなく、国際的なものになっており、様々な地域でコンサートやツアーを行っている。(1950年4月から6月にヨーロッパツアー。1956年12月から1957年1月にかけては、日本、タイ、ビルマを訪問。1958年5月にブリュッセル万国博覧会で演奏。1959年10月には再びヨーロッパにツアー。1962年5月から、7月はアメリカ国内ツアー。1964年2月から3月にかけては、自身のカルテットで日本を訪問。1966年8月はベルギー。)
1970年代と1980年代にもヨーロッパ・ツアーを行っている。健康上の問題があったにも関わらず、1986年に心臓発作で亡くなるまで、精力的に活動し続けた。