Benny Carter

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基本情報

生年月日
1907/08/08(New York, New York)
命日
2003/07/12(Los angeles, California)
使用楽器
Alto Sax, Trumpet, Tenor Sax, Clarinet, Trombone, Piano

経歴

Benny Carterは、主にアルトサックスとトランペットを演奏するが、その他にもテナーサックスやクラリネット、トロンボーン、ピアノでも録音を残している。また、演奏者としてだけではなく、バンドリーダーや作曲者、編曲者としても評価されている。

Benny Carterの父は独学のギタリストであり、母もオルガンとピアノを弾いていた。従兄のTheodore "Cuban" Bennettも名前の知られたトランペット奏者であった。幼いころからピアノを始めたBenny Carterは楽器を買う資金を貯める為に、牛乳屋や洗濯物の配達、家具屋などで仕事をしていたという。

1921年のこと。地元に住んでいたBubber Mileyや従兄のTheodore "Cuban" Bennettからの影響を受けて、中古のトランペットを購入したBenny Carterであったが、この楽器をすぐにはマスターできないことに気付き、購入した数時間後には店に戻り、Cメロディサックスに取り換えたと言われる。

Benny Carterは、1923年にプロとして活動を始め、当初はCメロディサックスを吹いていたが、1924年8月に加入したJune Clarkのバンドではアルトサックスを吹いた。その後は、Billy Paige's Broadway SyncopatorsLois Deppe's SerenadersEarl Hinesとの共演(1924年後半にバリトンサックスを演奏)、更に1925年から1926年にかけてはHorace Henderson's Collegiansに参加した。

1926年にHorace Hendersonの下を脱退すると、Billy Fowlerの楽団でボルティモアやニューヨークで活動した。その他、James P. Johnsonとの共演の機会や2週間程の短期間ではあるがDuke Ellingtonの楽団に参加することもあったようだ。その後、参加したFletcher Hendersonの楽団は短期間の在団に終わったが、その後に加入したCharlie Johnsonの楽団では1年以上仕事をしていた。なお、Charlie Johnson's Paradise Tenの録音にも参加しており、これがBenny Carterの初録音となった。(クラリネット、アルトサックス、ソプラノサックスを吹いている)

1928年にCharlie Johnsonの下を離れたBenny Carterは、短期間のHorace Hendersonとの共演の後、Fletcher Hendersonの楽団に再加入する。Fletcher Hendersonの楽団には1931年まで在団しており、楽団で編曲を担当していたDon Redmanの脱退後は、Benny Carterが編曲担当をすることが増えた。

このFletcher Hendersonの楽団での活動と並行して、1928年後半にはArcadia Ballroomで自身のバンドで活動。また、1929年にDon Redmanが音楽監督を務めるMcKinney's Cotton Pickersにも参加。音楽監督であったDon RedmanMcKinney's Cotton Pickersを脱退した後は、1931年から1932年までこの楽団のリーダーを務めた。

1932年にMcKinney's Cotton Pickersを離れたBenny Carterは、本格的にトランペットを演奏するようになった。1932年9月頃から自身のバンドを率いており、1933年から1934年にかけては、自身の楽団によるツアー、Lafayette TheatreSavoy Ballroomへの出演をしていた。1934年9月には短期間だがFletcher Hendersonの楽団に再加入。1934年からはBenny Goodmanの為の編曲を始めた。

1930年代半ばはWillie BryantCharlie Barnetの下で演奏していたが、その後、ヨーロッパに移住。1935年夏は、パリでWillie Lewisの楽団に参加。1936年はロンドンのHenry Hallの楽団のスタッフ編成担当となり、スカンジナビアにもツアーに出ている。1937年3月にはアムステルダムでFreddy Johnsonと共演。フランスでも演奏した後、1937年夏にはオランダでも演奏した。

1938年5月にアメリカに戻ると、自身のビッグバンドを結成し、ニューヨークのSavoy Ballroomに出演するようになる。1940年代は主に自身が率いるバンドでの活動が多く、ロサンゼルスやニューヨークで演奏していた。(1945年以降はロサンゼルスに定住)

1940年代後半からは映画業界の作曲や編曲の仕事が多くなり、1950年代はハリウッド周辺で自身のバンドを率いていた。1950年代後半から1960年代には、Alfred Hitchcock等のテレビシリーズの為の楽曲提供をしていた。

一方で、演奏活動も続けており、主にアルトサックスでいくつかのレコードの録音に参加。1960年には自身のカルテットと共にオーストラリアを訪れている。1970年代から1980年代初頭にかけてはヨーロッパや日本を含む定期的なツアーを行っている。