Lyric Theater

提供: 初期のジャズ

ジャズ百科事典 > 建造物


説明

Lyric Theaterは、ニューオーリンズのフレンチクォーター、アイバービル通りとバーガンディ通りの角に1919年に開館した劇場である。1919年2月24日に「アメリカ最大かつ最高級の有色人種向け劇場」としてオープンした。なお、建物自体は1895年にHenry Wengerにより建設されたもので、Lyric Theaterの開館前は、Wenger's Variety Hallというホールやビアガーデンとして使用されていた。

開館時のオーナーは、Luke Boudreaux と Clarence Bennett。2人は、アフリカ系アメリカ人の聴衆を対象に全国的に著名なブラック・エンターテイナーを招聘し、タレント協会TOBA(Theater Owners Booking Association)にも加盟することで、ジャズやクラシック音楽、ダンス、曲芸、ジャグリング、マジックといった多様な演目を上演していた。その結果、Lyric Theaterはニューオーリンズにおける有色人種向けヴォードヴィルの中心的な舞台となり、当時全米で活躍していた多くのスターがここで公演することになった。フロアに2000席を擁する大劇場であり、舞台・スタッフ・観客は、ほぼ全てが黒人であったという。(但し、例外的にオーナーのみ白人であった)

Lyric Theaterの誕生は、ニューオーリンズの社会文化的転換を象徴していたと言えそうだ。実際、同年の1919年にダウンタウンにあったフレンチ・オペラハウスが焼失し、従来のオペラ興行が終焉を迎えた一方で、新しいジャズ文化が台頭してきました。Lyric Theaterはオペラ音楽に代わる「新しい伝統芸能」としてのジャズが受け入れられる場となり、その後、1920年代を通じて、ニューオーリンズの黒人コミュニティに、最高の歌手、ダンサー、コメディアン、ブルース奏者などを送り出した。

劇場のハウスバンドであったJohn Robichaux's Orchestraは、1919年から1926年までの7年間にわたりLyric Theaterの興行を支えた。John Robichaux's Orchestraは、ニューオーリンズにおける初期のジャズの礎を築いた精鋭集団であり、メンバーにはクラリネットのAlphonse Picou、コルネットのAndrew Kimball、ドラマーのZutty Singletonなどが名を連ねた。

幼少期のEarl Palmerがこの舞台で踊った経験があると伝えられている他、少年時代のLouis Armstrongが頻繁に足を運んだこと、また後のゴスペル歌手のMahalia JacksonBessie Smithの公演を見て影響を受けたことなど、Lyric Theaterは多くのニューオーリンズ・ミュージシャンにとっての原体験の場となった。

Lyric Theaterの舞台には、ジャズやブルースを中心とした多彩な演者が立った。有名どころでは、ブルースの女王と称されたMa Raineyをはじめとする、Mamie SmithBessie Smithといった女性ブルース歌手たちが1910~20年代にツアーで来演したと言われ、Bessie Smithの公演では、ギタリストのLonnie Johnsonが伴奏を務めたという記録が残っている。また、実力派の歌手であったEthel Watersも、1922年4月にLyric Theaterで歌ったのだが、これはラジオでも放送された。更に、1926年のシーズン開幕公演においては、ジャズ歌手のIda Coxとヨーデル歌手のCharles Andersonが共演し、これも好評を博した。

また、劇場のステージでは、ダンスや喜劇も盛んに上演されていた。後にフランスで人気が沸騰するJosephine Bakerが1920年代初期にLyric Theaterに出演している他、タップダンサーのJack Wigginsやダンサー歌手のFlorence Millなどの多数のトップスターが出演した。

ジャズやブルース以外にも多彩な舞台が上演されていたことで、Lyric Theaterは典型的な黒人系ヴォードヴィル劇場としても機能していた。その演目には、喜劇や物真似、曲芸、ジャグリング、マジックなどの見世物芸やダンス・ショーに加え、オペラ・シアターや男性バラードグループといった様々なジャンルの音楽も含まれていたという。

アメリカ南部のジム・クロウ法下において、Lyric Theaterは黒人専用の劇場という位置付けであったが、金曜日深夜(午前0時)から招待制で、白人観光客向けの「ミッドナイト・フォリッジ(Midnight Follies)」と呼ばれる興行を別枠で定期開催していた。この公演ではブルース歌手や黒人フェイスの喜劇師、男女混合ダンス団、バンド、ヨーデル歌手、曲芸師まで“本物の”黒人エンターテイナーによる一連の演目が披露され、多くの白人観客を魅了していたという。

Lyric Theaterの公演は1927年11月を最後に突如終了し、その後まもなく閉鎖された。閉鎖の理由については、火災説(保険金を得るために故意に仕掛けられた)が主張されていたが、その後の研究によって、実際には経営難が原因であったことが分かっている。(1927年12月10日付のシカゴ・トリビューン紙では「過去2年間赤字続きであったため閉館」と報じられている)

劇場は1928年2月に取り壊され、その跡地は駐車場となった。建物は残っていないが、パイプオルガンなど一部備品は教会などに移されたという。