Jimmy Rushing
基本情報
生年月日 |
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1902/08/26(Oklahoma City, Oklahoma) |
命日 |
1972/06/08(New York, New York) |
使用楽器 |
Vocals, Piano |
経歴
James Andrew Rushingは、オクラホマ生まれの歌手であり、"Mr. Five by Five"と称される体躯の持ち主であった。"Mr. Five by Five"とは、身長5フィート、幅5フィートという意味で、1942年にはポピュラー・ソングにもなった。
音楽一家の出身で、父はトランペット、母は歌手であった。当初はヴァイオリンも弾いていたが、その後、従兄のWesley Manningに教わり、ピアノを弾くようになった。その後、オクラホマシティのダグラス高校で音楽を学び、アメリカ中西部を中心に歌手としての活動を始める。
1923年から1924年に滞在したカルフォルニアでは、時折、Jelly Roll Mortonの伴奏で歌うこともあったようだ。1925年に地元のオクラホマシティに帰郷すると、父親の経営するカフェを手伝っていたが、このカフェでJimmy Rushingが歌っているのを発見したWalter Pageによりスカウトされ、Blue Devilsに加入する。Blue Devilsでは、1929年11月に録音も残している。
Jimmy Rushingは1929年末にBlue Devilsを脱退し、より条件のよいBennie Motenの楽団に加入する。Jimmy Rushingは、この楽団には1935年4月まで留まった。1935年4月に楽団のリーダーであるBennie Motenが亡くなると、Bennie Motenと血縁関係のあるピアニストのIra "Buster" Motenの下で働き始めるが、ここは長続きせず、結局、カンサスシティで活動をしていたCount Basieの下に身を寄せることになった。
Jimmy Rushingは、Count Basieの楽団が出演していたカンサスシティのReno Clubに出演。その後、楽団と共にニューヨークへの渡り、1948年10月まで、この楽団のフィーチャリング・ボーカリストとして活動をしていた。
1949年から1950年にかけて、レギュラーではないが、Count Basieの楽団と共演する機会もあったようだ。その後、1950年後半から1952年までは、自身の小編成のコンボで、ニューヨークのSavoy Ballroomに出演。1952年6月以降は、単体の歌手として活動するようになった。
1957年9月に渡欧。その翌年の1958年5月にはブリュッセルでBenny Goodmanと共演。1959年9月にはBuck Craytonと共に渡欧。その他、1950年代から1960年代にかけてはCount Basieの楽団との共演の機会も多かったようだ。Benny Goodmanのシクステットと共に活動したのが1961年春のこと。1964年春にはEddie Condonと共に日本とオーストラリアを訪れている。
1969年の映画「The Learning Tree」にも出演。1971年8月には病気の為、音楽活動を中止したが、すぐに復帰し、最晩年の1972年にはカンサスシティのジャズ祭にも出演していた。