Blue Devils

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一言メモ

Walter Pageによって率いられたカンザスシティの人気バンド。
Bennie Moten楽団との熾烈な競争の逸話が残っている。

活動時期

1925年 ~ 1933年

主要メンバー

変遷

Blue Devilsの前身となるバンドは、Emir Coleman(トロンボーン)、Willie Lewis(ピアノ)、Walter Page(バリトンサックス、ベース、チューバ)によって1923年に結成されたという。Harry Youngblood(トランペット)、Reuben Roddy(テナーサックス)、Edward Crackshot McNeil(ドラム)等を含む9人から13人程のメンバーが在籍し、リーダーはEmir Colemanが務めた。1923年から1925年にかけて、オクラホマシティを本拠に各地で活動をしていたと言われる。

1925年にダラスを訪れた際にBuster Smith(クラリネットとアルトサックス)が加入。その数か月後、政界進出の為にEmir Colemanがバンドを辞めると、Walter Pageがリーダーを引き継いだ。これがBlue Devilsの成り立ちということになる。

Blue Devils

Walter Pageがリーダーを務めたといっても、Blue Devilsの経営は実質的には多数決に委ねられていたようで、雇用・解雇・旅程、賃金などのあらゆる事柄は、メンバーの意見に基づいて決められた。また、楽団が稼いだ報酬は平等に分配されるルールだった為、潤沢な資金を楽団として確保しておらず、巡業に出る際にも型の異なる複数の自動車に分乗し移動することを余儀なくされた。(後に剰余金を貯めてツアー用の大型車を購入した)

1925年頃のBlue Devilsはオクラホマシティの地方バンドのひとつという扱いで、カンザスシティやダラスの有名バンドに比べると低く評価されていたのだが、Blue Devilsは巡業に出かける度に各地の楽団にバンド合戦を挑み、これを打ち破ることで名声を高めていった。

また、Blue Devilsは巡業先での人材獲得にも積極的に取り組んでいた。

1927年にオクラホマシティのカフェで歌っているJimmy Rushingをスカウトした。バンドのサウンドに負けない声量と多彩な音色を持つ貴重な歌手であった。(ちなみにこのカフェはJimmy Rushingの父親が経営する店だったという)

1928年初頭、テキサスのSugar Lou and Eddie's Hotel Tyler Bandに在籍していたOran "Hot Lips" Pageに目を付けると、Andy Kirk楽団に対抗する為に必要な人材だと考えたBlue Devilsは、同じテキサス出身のBuster Smithを送り込み、加入を取り付ける。

ピアニストのCount Basieは1928年7月にダラスで勧誘した。Blue Devilsがダラスを訪れた際に正規のピアニストが姿を見せず、別のピアノ奏者を探さなくてはならなくなるという事態が発生したのだが、町中を探し回るWalter PageJimmy Rushingがたまたま小さなクラブで演奏するCount Basieを見つけたという話が残されている。この晩のセッションではCount Basieは代役に過ぎなかったが、程なくしてBlue Devilsに加入することになる。

Eddie Durhamの加入時期は曖昧で1920年代後半という事以外は分かっていないが、Coy's Black Acesから引き抜いたという。

1928年のこと、Paseo Hallで行われたBennie Moten楽団とのバンド合戦は長時間の熾烈な勝負になり、その結果、Blue Devilsに軍配が上がったという噂が残っている。George E. Leeの楽団にいたBud Johnsonの「Bennie Motenは最良の人材を求めていた」という証言の通り、この頃からBlue Devilsの楽団員に対するBennie Motenの移籍勧誘が始まったという。

1929年に株式市場が瓦解し不況が訪れると、Blue Devilsのメンバーにとって、Bennie Motenの勧誘を断ることが難しくなっていた。Bennie Motenのバンドは安定した仕事を持っており、楽団員には保証付きの契約を提供していただけでなく、ニューヨークへの演奏旅行があり、超過勤務手当がつくVictorレーベルとの録音契約もあった。1929年夏頃にCount BasieEddie DurhamBlue Devilsを脱退し、Bennie Motenの楽団に加入している。(1929年10月のBennie Moten's Kansas City Orchestraの録音にはこの二人の名前が演奏者としてクレジットされている)

1929年11月に、Blue Devilsは録音の機会を得るが、この時にVocalionレーベルに吹き込まれた2曲がBlue Devilsの唯一の録音となった。Vocalionレーベルの制作担当者の好みに合わなかったのか、同時に招かれたAndy Kirkの楽団が長期の録音契約を取り付けたのに対して、Blue Devilsにはその後の契約の話はなかった。(そればかりか、この時の原盤は失われてしまい、現存しているBlue Devilsの音源は1930年に発売された擦り傷だらけのレコードからの複製で音質も劣化したものだ)カンザスシティの好敵手たちが証言していた通りの素晴らしいバンドであったことは、この時の録音からも判断できる。

1930年になるとHot Lips PageJimmy Rushingが退団し、Bennie Motenの楽団に加入する。

実力のあるメンバーが次々と抜けて追い込まれつつあったBlue Devilsであったが、素晴らしい出会いもあった。ミネアポリスのナイトクラブに出演していた若いバリトンサックス奏者の演奏を聴いたBlue Devilsのメンバーは、その音楽を気に入り、自分たちのバンドに加入するように勧誘した。自身のバリトンサックスを完全に凌駕する若い奏者に感銘を受けたWalter Pageはバリトンサックスを諦め、ベースに専念するようになったと言われる。1932年春にBlue Devilsに加入するこの若いサックス奏者こそがLester Youngであった。

Buster SmithLester Young(それにTheodore Ross)のリードセクションは強力だった。当初はLester Youngもクラリネットやアルトサックスを演奏していたが、そのポジションはBuster Smithに任せ、テナーサックスを専門とするようになった。このリードセクションは、ブラスに負けないくらいの音量を出すことで評判であったが、Buster Smithの証言によると「Theodore Rossと自分はアルトサックスにテナー用のリードを挟み込み、Lester Youngはテナーサックスにバリトン用のリードを挟み込んでいた」とのことで、こうした工夫でその音量を維持していたようである。

このLester Young加入後、Blue Devilsに決定的な打撃を与える事件が起きる。カンザスシティの音楽家組合と揉めたことで、リーダーのWalter Pageが罰金を科せられるという事態が発生した。その額は250ドルという当時としては相当な金額であり、報酬がバンドメンバーと等分である一方で、リーダーとしての責任は全て負わされるという状況にWalter Pageはうんざりした。1932年12月のBennie Moten楽団の録音に参加するべく、リーダー自らがBlue Devilsを脱退し、Bennie Moten楽団に身を寄せた。

Blue Devils脱退の際、Walter Pageがバンドのその後をJames Simpsonに任せたとされる一方で、残ったメンバーの中で信頼が厚かったBuster Smithが実質的にリーダーを務めたようだ。

その後のBlue Devilsの状況はなかなかに悲惨で、不況の影響もあり、バンドは縮小を余儀なくされた。解散間際の頃は7名まで楽団員は減っていたという。最後までBlue Devilsに残ったメンバーには、Buster SimithLester YoungTheordore Rossのサックス組の他、トロンボーンのJap Jones、ドラムのErnest Williamsがいた。

1933年になると、大西洋沿岸に巡業に出たBlue Devilsは移動する為の費用を稼ぐことにも苦労していたようで、二台のタクシーに分乗して酒場まで移動すると、およそ70ドルのタクシー代を週末まで待って貰い、借金返済の為に酒場で毎晩のように演奏していたという話がある。何人かの楽団員がこっそり逃げ出そうとしたところを運転手に見つかった為、警察官に訴えられ、楽器が差し押さえられるという事態にまで発展する。

なんとか借金を返したBlue Devilsが放浪の末、セントルイスに辿りついた頃、Bennie Motenが噂を聞きつけ、迎えの車を出した。何人かのメンバーは汽車代を貰って、帰宅したが、Buster SmithLester YoungTheodore RossJap Jonesの4人は、Bennie Motenの車に乗ってカンザスシティまで行き、Motenのバンドに加入する。1933年末のことであった。

録音