Bix Beiderbecke

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基本情報

生年月日
1903/03/10(Davenport, Iowa)
命日
1931/08/06(Queens, New York)
使用楽器
Cornet,Piano

経歴

Leon Bix Beiderbeckeは1920年代の偉大なミュージシャンで、その美しいコルネットの音色で多くのジャズファンを魅了し、その後、激しい飲酒により夭折したこともあり、伝説的な存在となった。

母はアマチュアのピアニストであり、父はダベンポートで商売をする商人であった。Bix Beiderbeckeが最初に始めた楽器は3歳から始めたピアノであったが、その後、14歳でコルネットも始めた。最初は、地元の少年バンドで演奏していたようだ。高校に通っていた1919年から1921年にかけて、様々なバンドのギグに参加していた。

両親に音楽をすることを認められなかったBix Beiderbeckeは、1921年にシカゴ近郊の陸軍士官学校(Lake Forest Military Academy)に入学。しかし、在学中にドラム奏者のWalter "Cy" Welgeと出会い、バンドを結成している。この在学中には校内行事で演奏をするだけではなく、近くの町で出演契約を取ったり、学生だけでなく音楽仲間の間でも名前が売れて、一目置かれる存在になっていたようだ。シカゴを訪れた際にはNew Orleans Rhythm Kingsの演奏を間近で聴く機会にも恵まれた。

音楽の面では充実していた一方で、学業が疎かになった結果、Bix Beiderbeckeは1922年5月22日に士官学校を除名処分となる。その後、Bix Beiderbeckeは故郷のダベンポートに戻るが、1922年夏にはミシガン湖のボートで演奏した他、ミシガン州ホワイト・レイク周辺で演奏していたようだ。

この頃の数々の短期演奏の契約の中でBix Beiderbeckeは、経験を積み、自信をつけていった。Bix Beiderbeckeが参加する楽団がオハイオ州シンシナティに定期出演先をいくつか確保しており、1923年10月頃には、これがThe Wolverinesへと発展した。

The Wolverinesはスターとなるミュージシャンが揃っていたわけではないが、Bix Beiderbeckeのコルネットがこのバンド全体の音楽を引き上げていた。インディアナ州リッチモンドのレコード会社であるGennettが、この楽団に注目したことで、1924年2月にThe Wolverinesは初録音の機会を得た。この時、計4曲が吹き込まれたが、2曲はお蔵入りとなり、「Fidgety Feet」と「Jazz Me Blues」の2曲が売り出された。レコードが発売されると、多くのジャズミュージシャンたちがThe Wolverinesでコルネットを吹くBix Beiderbeckeに注目し始めた。Red Nicholsが「Jazz Me Blues」のコルネットソロを模倣した他、シカゴの白人バンドでもThe Wolverinesのレパートリーを取り上げるようになったという。

The Wolverinesは、オハイオ州シンシナティで活動した後、1924年夏はインディアナ州ゲイリーでの仕事をして過ごした。その後、ニューヨークに渡ると、1924年9月にはCinderella Ballroomで演奏した。

1924年11月に、Bix BeiderbeckeThe Wolverinesを脱退。Jean Goldketteの下で短期間練習をした後、シカゴのCharlie Straightに雇われるが、約4週間で解雇される。譜面を読むことができなかったのが理由であったと言われる。ジャズの演奏については難なく会得していたBix Beiderbeckeであったが、正式な音楽教育を受けたわけではなかった為、譜面を読むことについては苦労したようだ。Bix Beiderbeckeは、音楽教育を受ける為にアイオワ州立大学の門を叩くが、この大学の規則に馴染めなかったこともあって、在籍期間18日で通うことを止めてしまう。

Jean Goldketteが、譜面が読めないBix Beiderbeckeの為に便宜を図って、自身の傘下にいるミュージシャンのうち、ホットな音楽を演奏するミュージシャンとの仕事を斡旋してくれた。1925年秋にJean Goldketteが所有する楽団のうち、Frankie Trumbauerが所属する有力な楽団に参加することになる。この時期のBix BeiderbeckeFrankie Trumbauerによる録音は名演と呼べるものが多い。自身のピアノによる「In a Mist」を作曲し、OKehレーベルに吹き込んだのも、この時期の話である。

1927年9月にNew York Restaurantに出演していたAdrian Rolliniの楽団で短期間活動した後、1927年10月31日にPaul Whitemanの楽団と共に演奏。当時、人気も資金もあったPaul Whitemanの楽団で演奏することで、Bix Beiderbeckeは名声とお金を得ることができたが、飲酒から来る体調不良により、楽団をしばしば離れることがあった。

1928年11月から1929年2月は音楽から離れていたが、1929年3月にFrankie Trumbauerの楽団に参加し、その翌月にPaul Whitemanの下に復帰。しかし、同年9月に再び体調を崩し、ダベンポートで療養することになる。

1930年春にニューヨークに戻ると、自由契約のミュージシャンとして活動するようになり、Hoagy Carmichaelの録音にも参加。(なお、Hoagy Carmichaelとの録音の中にはBix Beiderbeckeのリーダー名義のものもあった)

1930年11月に再び故郷のダベンポートに戻ると、1931年1月まで地元のバンドで演奏。その後はニューヨークで過ごすが、同年2月には、Paul Whitemanを訪ねて、シカゴに行っている。1931年はラジオ番組への出演や大学での演奏の機会もあった。

この年の夏、Bix Beiderbeckeはアルコール依存症の発作を起こし、医者の治療の甲斐なく、亡くなった。