クリオール(Creole)
定義
クリオール(Créole)は、ルイジアナ地方に移民したフランス人やスペイン人の血を受け継ぐ人々のことを指す言葉であったが、徐々にフランス系やスペイン系と黒人との混血の有色人種を意味するようになった。特にジャズ史においては、後者の意味で用いられることが多い。(クレオールと表記される場合もあるが、この記事ではクリオールに統一する)
白人の植民者とアフリカ系の血統が混ざりあったクリオールの人々は、18世紀末から19世紀にかけてニューオーリンズで独自の社会階層を形成しており、白人社会と奴隷社会の間で比較的恵まれた生活を享受していた。
主にフランス語系の文化的系統を継承していることも特徴のひとつであるが、裕福なクリオール家庭は、その子弟をフランスへ留学させるほどの高い文化水準を持っており、中にはクラシックのオーケストラの楽団員になったり、音楽教師をする者もいた。19世紀のニューオリンズにおけるクリオールの存在と、彼らが持つ西欧的な音楽的素養や演奏技術が初期のジャズの形成に大きな役割を果たすこととなる。
19世紀ニューオリンズのクリオール
ニューオーリンズでは、自由黒人や混血のクリオールを中心に、アフリカ、フランス、スペイン由来の要素が融合した口承音楽が発展した。19世紀には、祭りや家庭の集まりでアフリカ系リズムとヨーロッパ系メロディが融合したア・カペラのジュレ歌など、コール・アンド・レスポンス形式の歌唱が盛んだった。奴隷解放後、クリオールが楽器を手に入れると、バンド演奏や舞踏音楽も普及した。
一方、上流のクリオール家庭ではクラシック音楽が根付き、ピアノやヴァイオリンの習得やヨーロッパ(主にフランス)への留学が一般的だった。19世紀半ばには、ニューオーリンズ・フィルハーモニー協会に100名を超える有色人音楽家が所属し、白人聴衆の前でクラシック音楽を演奏していた。さらに、ハイチ革命を逃れてきた富裕なフランス系黒人が多くの音楽家を伴い、現地文化に影響を与えた。こうしたフォークとクラシック音楽の共存・共振がクリオール社会の大きな特徴であったと言えよう。
当時のニューオーリンズは急速に発展し、人口の約6割が黒人、そのうち3分の1を市民権を持つクリオールが占めていた。クリオールは政治・経済の上層を担い、そのフランス風の「優雅さと洗練」が社会に浸透していた。劇場や舞踏会には自由有色人向けの席やクリオール専用の舞踏会も設けられ、クリオール文化は公然と誇示された。これらの伝統は南北戦争前夜まで続き、ニューオーリンズ独自の都市文化を形成していたのである。
南北戦争後のクリオールの没落
1861年の南北戦争とその後のレコンストラクション期、さらに1877年以降のジム・クロウ法の導入は、ニューオーリンズのクリオール社会に大きな打撃を与えた。戦後、人種差別を前提とした二分法が強まり、中間層だったクリオールの地位は急速に低下した。白人たちは保守的な人種意識に同調し、クリオールと距離を置くようになったのである。
当時、クリオールも黒人コミュニティから独立しようとしたが、1890年代以降の「一滴の法則」により法的には黒人とみなされたことで、個別の権利や地位は失われていった。1896年の「プレスリー対ファーガソン裁判」では、クリオールも「Separate but Equal」によって差別的な扱いを受け、その独自の地位は消滅した。
教育面でも、戦後は公立学校が人種ごとに分離されることとなり、クリオール独自の学校は廃止となる。アメリカ的な教育体制に組み込まれることで、フランス語・スペイン語の伝統教育は激減した。ジム・クロウ時代の厳しい人種隔離政策により、クリオールの社会的機会も奪われ、その独自性のある文化も第二次世界大戦頃までには殆ど失われることとなった。
ジャズ発展への貢献
ニューオーリンズが「ジャズ発祥の地」と呼ばれる背景には、クリオール文化の大きな影響がある。19世紀末から20世紀初頭にかけて、Freddie Keppardが率いたOriginal Creole OrchestraやKing OliverのCreole Jazz Bandなど、草創期の多くのジャズ楽団でクリオール系ミュージシャンが活躍した。有名なJelly Roll Mortonもクリオールの家庭で育ち、幼い頃から楽器や音楽理論を学んでいた。
ニューオーリンズ・フィルハーモニー協会などで活躍したクリオールのプロ音楽家や裕福なクリオール家庭のクラシック音楽教育もジャズの理論的な基盤となった。クリオールは、欧州の舞踏会音楽(ワルツ、マズルカ、マーチ)とアフリカ系リズムを融合した独自の音楽を演奏し、これがジャズに継承されたのである。アフリカ由来のシンコペーション、スペイン系ハバネラ、フランスのカドリールなどの要素が混ざり合い、ハバネラなどにも受け継がれている。
クリオール音楽家には、複数の楽器や譜面に習熟している者が多く、結果として、他の黒人バンドよりも高いプロ意識を持ち、ジャズ初期の楽曲構成や編曲にその基礎力が反映されることとなった。クリオールの音楽は、ジャズに対しメロディ・リズム・即興性の土台を提供したと言えよう。
ジャズ曲に残るクリオール語
また、ニューオリンズのジャズには、仏語・クリオール語の痕跡が色濃く残っている。
初期の楽曲や民謡にはフランス語由来の語彙が登場することも少なくない。例えば、「シェリー(cherie)」「アミ(ami)」「ボンソワ(bonsoir)」などの呼びかけもフランス語由来である。また、ジャズ楽曲の歌詞においては、フランス語の文法そのままではなく、否定文における定動詞の前置詞「ne」を省略する(例:Je ne sais pas→Je sais pas)などのクリオール独特の文法傾向も見られることがある。
発音上の特徴としてはフランス語の鼻母音や、R音を巻き舌ではなく喉音に発音する傾向など、ニューオリンズ特有のアクセントがジャズ歌唱にも反映されているようだ。
カーニヴァル(マルディグラ)や家庭のパーティでは、クリオールの田舎歌がフランス語で歌われ、即興の歌詞も多く生まれた。戦後に出版された奴隷歌集にも、ニューオリンズのプランテーション歌や都市労働歌、ヴードゥーの歌などにフランス語の歌詞が多く含まれている。これらは、クリオール語がジャズの歌詞やメロディに自然に溶け込み、クリオール文化特有の語彙や発音がニューオリンズ・ジャズの個性を形作ったことの証左である。