リンディ・ホップ(Lindy Hop)
起源
リンディホップは、1920年代後半のニューヨーク・ハーレムでアフリカ系アメリカ人たちによって生み出された社交ダンスである。チャールストンやブレイクアウェイといった当時流行していたステップを取り入れつつ、パートナーダンスとして進化したもので、即興性とスピード感を特徴としていた。
1928年、ハーレムのマンハッタン・カジノで開かれたダンスマラソン競技に参加していた若きダンサー"Shorty George" Snowdenと相棒のMattie Purnellは、それまでの決まりきった踊りに飽きると突然ペアをほどき、自由に即興のステップを踏み始めた。退屈していた観客や演奏者を驚かせたこの瞬間こそが、リンディホップ誕生の契機となったと伝えられている。
SnowdenとPurnellは偶然から生まれた新しい動きを洗練させ、1928年の終わりまでにはハーレム中のダンスホールで人気者となった。彼らの発明したこのダンスはさらに多くの若者に模倣されるようになり、パートナー同士が離れては戻るという画期的なスタイルは、社交ダンスの新たな可能性を切り開いていった。
名称の由来
リンディホップという名称は、1927年5月に飛行士チャールズ・リンドバーグが達成した大西洋無着陸横断飛行(ニューヨーク〜パリ)になぞらえて名付けられたとされる。当時リンドバーグは「幸運のリンディ(Lucky Lindy)」の愛称で呼ばれ国民的英雄となっており、各地で彼にちなんだ曲や商品、流行語が次々に生まれていた。1927年の飛行直後には早くも「リンドバーグ・ホップ」と題した流行ダンスが新聞で報じられ、「リンディが跳んだ!」という見出しが踊った記録がある。ハーレムのダンサーたちも例外ではなく、この偉業にあやかった名前を自らのダンスに用いる空気が醸成されていた。
1928年6月、前述のマンハッタン・カジノのダンスマラソン会場で、報道用カメラがSnowdenの足元をクローズアップし「そのステップは何と呼ぶのか?」と尋ねた。するとSnowdenは少し考えてから「リンディを踊ってるのさ!」("I'm doin' the Hop... the Lindy Hop.")と答えたという。この機知に富んだ受け答えによって、新しいダンスは正式に「リンディホップ」と命名されたのである。
なお、1920年代末から30年代初頭にかけて「リンディホップ」や「リンドバーグ・ホップ」と名のつくダンスは全米各地で複数登場していたことが記録に残っている。しかし現在まで伝承されたリンディホップは、このハーレムでSnowdenらによって形作られたスタイルのみであり、それ以外の同名のダンスは一過性の流行にとどまった。Snowden自身、「基本ステップはリンドバーグが大西洋を渡る前から"ホップ"と呼んでいたし、あの飛行の後しばらくはリンドバーグ・ホップと呼ぶ者もいたが長続きはしなかった」と証言している。こうした背景から、伝説的な飛行「リンディの大跳躍(Lindy's hop)」になぞらえたこの呼称は、大胆でスリリングな新踊法にふさわしい名前として定着していったのである。
サヴォイ・ボールルーム(Savoy Ballroom)
リンディホップが育まれたハーレムでは、1926年にオープンしたSavoy Ballroomがその中心地となった。Savoy Ballroomは当時のニューヨークでも屈指の巨大ダンスホールで、1万平方フィートのフロアに毎夜何千人ものダンサーが詰めかけた。経営者は黒人実業家のCharles Buchananで、(Roseland Ballroomのような)白人専用だったダウンタウンの高級ホールに匹敵する洗練された空間をハーレムに作り上げたのである。
Savoy Ballroomは当初から人種差別のない方針を掲げて営業し、観客の約85%がアフリカ系、15%が白人という割合で混在して踊っていた。当時、人種混淆のダンスホールは全米的にも極めて珍しく、この点でSavoyは時代の先駆けであった。実際、常連ダンサーであったFrankie Manningは「Savoyでは踊れるかどうかだけが問われ、人種は問題にならなかった」と述懐している。
Savoy Ballroomでは腕自慢の踊り手たちがしのぎを削り、北東端の一角は「キャッツ・コーナー」と呼ばれて最高のダンサーたちが占有した。その中心人物だったHerbert White(通称"Whitey")はSavoyの用心棒からマネージャーとなり、有力ダンサーをスカウトしてプロのショーダンスチームであるWhitey's Lindy Hoppersを結成した。1935年に創設されたこの黒人ダンサー団は精巧な振り付けのルーティンで人気を博し、1937年の映画『マルクス一族珍道中』(原題:A Day at the Races)への出演を皮切りにブロードウェイやハリウッドで活躍した。
Savoy Ballroomは「ハッピー・フィートの館(Home of Happy Feet)」の異名を取り、毎年ハーヴェスト・ムーン・ボール(収穫月舞踏会)と呼ばれるダンス大会も開催していた。1935年の第1回大会ではリンディホップ部門が目玉となり、その優勝者たちは翌年ヨーロッパ遠征を行って海外にまでリンディホップを紹介している。Savoy Ballroomは1958年に閉館するまでに延べ250組以上のバンドを招き入れ、延べ約700万人の客を踊らせたといわれる。リンディホップ発祥の地であるこの伝説的ホールは、ハーレム・ルネサンス時代の活気と、人種の壁を越えたダンス文化の象徴となったのである。
スウィング期、その黄金時代
リンディホップが隆盛を迎えた1930年代後半から1940年代初頭は、ちょうどジャズ史でいうスウィング時代に該当する。SavoyではChick WebbやCount Basieらの黒人ビッグバンドが常駐し、強靭なリズムとアップテンポの「スウィング」ジャズでダンサーを熱狂させた。ダンスと音楽がお互いに刺激し合う環境の中、リンディホップはより高速かつアクロバティックな方向へと発展していく。
1936年頃からはリフトや宙返りを取り入れた「エアリアル(空中技)」が登場し、当初は古参ダンサーたちに「型破りだ」と批判されたものの、若手の情熱を止めることはできなかった。Savoyの新世代ダンサーだったFrankie Manningは、1935年のコンテストでパートナーのFreda Washingtonを自分の背中から頭上へ放り投げる画期的なエアリアルを披露し、観客2,000人をあっと言わせて優勝している。こうした革新によってリンディホップはダイナミズムを増し、一層ショー的な魅力を備えるようになった。実際、Whitey's Lindy Hoppersをはじめとするダンス演舞団は全米ツアーを行い、ハリウッド映画にも進出している。特に1941年の映画『ヘルザポッピン』(原題:Hellzapoppin')におけるリンディホップの超高速エアリアル群舞は、後世まで語り草となった伝説的シーンである。
こうした人気の中、「ジルバ(Jitterbug)」と呼ばれる言葉も広まった。Cab Callowayが1932年に発表した曲名に由来するスラングで、酒やドラッグで震える人(ジッター)になぞらえたこの言葉は、若い世代のリンディホップ愛好者を指す言葉として定着し、次第にリンディホップそのものの別名にもなっていった。やがて第二次世界大戦中の1943年、雑誌『ライフ』は「リンディホップはアメリカの国民的フォークダンスである」と宣言し、黒人コミュニティ発祥のダンスが全米に浸透したことを認めた。しかし皮肉にもその頃には、リンディホップは最盛期を過ぎつつあったのである。
その衰退とリバイバル
アメリカが第二次世界大戦に参戦すると、多くの若い男性ダンサーたちも徴兵され、Savoyの活気にも陰りが生じた。リンディホップは米軍兵士によって欧州にも伝えられ、イギリスやフランスでは進駐軍の若者たちが現地の人々とジルバを踊る姿が見られた。しかし戦時下のジャズは娯楽統制の対象ともなり、ナチス・ドイツ占領下の国々では「敵性の黒人音楽」としてスウィング・ジャズやジルバが禁止される事態も起きた。また終戦前後のアメリカでは、音楽面でビバップなどダンス不向きの新しいジャズ様式が台頭し、社交ダンスとしてのスウィングの人気は下火になっていった。戦後はロックンロールの隆盛もあり、かつての「国民的ダンス」であったリンディホップは1950年代までに表舞台から姿を消していったのである。
しかしリンディホップは完全に絶えたわけではなかった。1980年代になるとアメリカやヨーロッパでスウィング時代の再評価が起こり、往年のリンディホップを復活させようという動きが始まった。ハリウッド黄金期のダンスに憧れた若い愛好家たちが、ハーレムの生き残りの元ダンサーを探し出して指導を仰いだのである。1986年にはスウェーデンのダンサーたちがFrankie Manning(当時72歳)を招待し、サヴォイ仕込みのリンディホップを学んだというエピソードも知られている。それをきっかけにManningは再び世界中で指導を行うようになり、自らも「リンディホップの大使」としてステージに立った。
さらに1990年代末から2000年代初頭にかけてネオ・スウィング旋風が起こると、スウィング・ダンスは一般メディアにも復活し、リンディホップは若者文化としても脚光を浴びた。現在では北米・欧州はもちろんアジアやオセアニアまで世界各地にリンディホップのコミュニティが存在し、イベントや競技会も盛んに開催されている。こうしたリバイバルの中で、リンディホップは単なる懐古趣味ではなくアメリカ発祥の貴重な黒人文化遺産として再評価され、21世紀においても生きた伝統として踊り継がれているのである。
著名なダンサーたち
リンディホップの歴史には、多くの伝説的ダンサーや振付師の名が刻まれている。
創始者の一人であるGeorge SnowdenはSavoy Ballroom開店当初から無敵のダンサーとして君臨し、史上初のプロ・リンディホップチーム「Shorty Snowden Dancers」を率いて1930年代にはPaul Whitemanの楽団と共演するなど活躍した。
Snowdenと時期を同じくして人気を博した第1世代のダンサーには、後に活躍するFrankie Manningのアイドルの一人であり、その優雅さと華やかな動きで知られていた。1935年頃にはSavoy Ballroomに通わなくなっており、後にWhitey's Lindy Hoppersに誘われた際には、そのブランクからか、そのダンスからはかつてのような楽しさは失われていたと言われている。
Frankie Manningは空中技「エアステップ」の開発者であり、Whitey's Lindy Hoppersの主要メンバー・振付師として1930年代後半にリンディホップを世界に広めた立役者である。彼は「リンディホップの大使」と称され、1980年代以降の復興期にも世界各国で精力的に指導を行った。
女性では、Norma Millerが有名で、彼女は10代でサヴォイの花形ダンサーとなり「スウィングの女王(Queen of Swing)」と呼ばれた。Millerは後年、自身の体験を記した回想録『スウィンギン・アット・ザ・サヴォイ』を著し、リンディホップ黄金期の文化的価値を伝えている。
また、影の立役者とも言えるWhitey's Lindy Hoppersの創設者Herbert Whiteのことも忘れてはならない。彼はダンサーの才能を見抜く卓越した眼力を持ち、Frankie ManningやNorma Millerを含む精鋭を集めて洗練された振付によるショー形式のリンディホップを確立した。彼が率いた一座の成功により、リンディホップはSavoy Ballroomの一地域の文化からアメリカを代表するダンスへと飛躍したと言えるかもしれない。
こいした先人たちの情熱と技巧こそが、リンディホップをジャズ史に残る不朽の遺産へと押し上げた原動力であった。